昭和51年4月2日 朝の御理解
入力者=末永静行
御理解第十節
「神が社へ入ってはこの世が闇になる。」
今、教団では、奉斎奉祭様式ということが、もう、ここ何十年でしょうかね、させてもらってます。
社の中にお祭りをするということは、金光教的ではないというのです、または、神は社へ入ってはこの世が闇になるといっておられるのですから、確かな、社はいらない、いわゆる、不要論が出るのもまた当然のようにも思います。
ところが、教祖様も、あの、奥城に登りますと立教の聖場ですね、あの、麦、わらびで、左側の方に小高くあります、あれは、神様が二間四面の宮をつくってくれと金光大神に願っておられるのです、ね、二間四面のお宮です、御本部参拝した人は分かるです、あの、教祖様の一番元のお家をそのままにお取次のするところがそのままあります。左側にちょっと小高く( ? )ちょうど倉のような感じでございます。
あれは、神様がお頼みになって建てられた二間四面の宮、それが成就、叶うたならばその方の宮と仰っておられる、だから、天地金乃神様がお入りになるのではなくて、教祖金光大神様のお宮ということになります。
けれども、教祖様に建ててくれと頼んでおられる、ね、二間四面の宮を建ててくれ、まあ、いろいろ問題になる所です、と云うて、私はこの、奉斎をする、いわゆる、お祭りをするということは、お社の中に閉じ込めるという事ではないと思うです、もう社の中から出てこられないように、神様を封じ込むというとは違う。
先日、放蕩な息子さんがあるから、というて感動すぐなされるというようなお取次をさせて頂いた時です、その、神様は私に御心眼に●②、ね、しめなおを二重にこう、あの、息子でしょうね、息子に二重にぐるぐる巻きにして下さったところを頂いた。●。ね。
だから、両親はそのことは何やらなんやら分からなかったでしょうけれども、とにかく、まあ、私もお願いにきた以上は任せなさい、であんた方はあんた方で親としての道を、云うならば、改まって、子供の病気は親の病気と言われるぐらいだから、一つ親が改まらなければいけない、それから、まあ、訳は分からんなりに帰ったけれども、息子が帰ってきてから外に出て歩かんごつなった、何日目かお礼に出てきております、観度するせんのといっておったのが、その、親父さんについて一生懸命働く、ただ、不思議でたまらん、それでまた、そのことをお礼お届けにきております。ね。
ですから、その、そう云うように、例えば、あの、神様の働きというものはあるものですけれども、神様を社の中にお祭りをするという事はしめなおを張っても、しめなおの外から出られんと云うようにするのとは違うという事、ね、そして、お祭りかなんかの時に開扉をしてから、神様とこう面接すると云うものではなくて、その、11,12節にもありますように、神は天地の守じゃから離れる事は出来ぬ、神に会おうと思えば庭の口を外へ出てみよう、空が神、下が神と、いわゆる、私共が対象として拝んでおる神様はそう云うようなお方、ね、それで、云うならば、天地、云うなら、あおよろを拝んでもよし、大地を拝んでもよい訳であります。
ところが、不思議な事にです、ね、天地を拝ませて頂くということは余りにも、やはり漠然のような気がするのです。やはり、祭壇を設けたり、ね、お社を作ったり、そこに、いやば、日はお鎮めすると、そして、その前でそこに神様見ましますと、そして御祈念をしたり、いわゆる、拝む訳です。
今、私の御祈念はちょうど御神前に出てから1時間、それ1時間ですね、それから、この控えに出てから、控えに参りましてから30分間、今までは一時間の御祈念のだから、前と違え、一時間半御祈念をしておる訳です、ね、ですから、私に控えで拝みましても、なら、御神前に出てから、拝みましてもです、なら、私が毎朝、ここの庭に出て天地を拝ませて頂くでもです、ね、やっぱり神様は聞いておって下さるし、ね、また、聞き届けておって下さる。
昨日、お月次祭に併せて勧学祭を、その後に盛大にマルショウの大会があり、また、引続いて私の誕生の祝賀会を皆さんから模様してくださった。とても私は、まあ、後で一言皆さんに挨拶をした訳ですけれども、私ぐらいな者の誕生を皆さんがこんなに祝福してくださる、また、その祝福を受けるだけの資格なんかとてもありはしないと思うのです。けれども、私自身の、言うならば祝賀ではなくて、あれは全部そのまま合楽教会の御非礼だと頂いたら有り難い、ね、私の誕生を皆でこんなに祝ってくれる、ね、祝って下さる、その中で私が別に云っておるというのではなくて、合楽教会の御非礼として、ね、昨日の一日だったと、私はそんなふうに頂いております。その頂き方、受け方で私は勝負がつくようなお道の信心だと思うです。
神様をお社の中にお祭りをしては金光教的ではないというふう頂くとどうしてもお社を全廃しなければならない、なら、拝む焦点というても、やっぱり中自身から、まあ、天地書附を奉斎するというか、おいて、そこに祈念の焦点をおくということになる。
ちょうど、お祭りが始まる前に、ね、北野の中村のおばちゃんがお祭り寸前にやってきて、これも昨日、( ? )話した事でしたけれども、娘婿からで( ? )電話がかかってきた、電話を頼んであったところ、電話の取次がでけた、出けたのはよかったけれども、番号が悪い、0044ちいう、番号である、44番という訳です、004、いわゆる、「よん」という訳です、それで、私はもう時間がないから全部聞きませんでしたけれども、とにかく神様に、だから、息子としては、変えてもらうか、または、ご真意があるならば御理解でも頂いて頂きたいといったようなことであろうと思うたから、まあ、そのまま私はお祭りにかかりましたから、お祭りの中にそのことを思わせて頂いたら、●②、大きな男が小さい赤ん坊をこうおんぶしておる所を頂いたから、ははぁー、00というのは神様で、無いといえばない、あるといえばある、まるで空気のようなもの、けれども、目には見えないけれども、やはり、ある事はある、というので、私はその〇〇というのは神様のことだと、ね、44という事は、ね、死死と読めば、死が二つも重なることになるのだけれども、よんよんというたら、ね、ゴロもよいし、まあ、この辺ではおんぶするという事を、をよんよんするという、だから、大きな天地の親神様にいつもおんぶしておる、まあ、言うなら、いつも天地の親神様の懐の中にある私達なのです、ね。
だから、天地の親神様が、ね、おんぶしたり( ? )下さるわけはないのだけれども、私共の心がいつも絶えず神様の御懐の中にあるんだ、いつもおすがりしぬかせて頂いて神様におんぶしておるようなものだと思う所に、いわゆる、われ神といつも共にあるという実感が生まれてくるのです。ね。
私はだから、実感の問題だと思うのです、ね、それを、苦労して、それがやっぱり、前に座っただけでも有り難くなるような奉斎の様式を取らせていただくと言うことがです、ね、いうなら、実感が有り難いと実感できれるということ、やっぱり、神様は今申しますようにこちらの心一つではどこから拝んでもそこに神様はおわしますという、ね、また、そう言う神様なんですけれども、やはり、外へ出る時には、やはり、御神前にお願いをする、帰ってきたらまたご神前でご挨拶をする、ね、いわゆる、そこに、云うならば、麗しくというか、ね、また、総合にというか、とにかく有り難くなれるようにそこに神様が奉斎してあった、何時もそこには御神灯が赤々とついておって、ね、お榊ばが生き生きした青々とお供えがしてあって、御神前には、まあ、いうならば、真心込めた、私共のお供えがこうしてある、そこで座っただけで有り難いと言う実感が頂けれる、その有り難いと言う実感におかげはあるのです。
なるほど、天地の親神様が、ね、二間四面の宮を建ててくれと教祖の神様にお依頼になられた、お頼みになられたということ、私は、ね、いうなら、教祖のお心の中にそう言う有り難い実感というものを求めたもうたのだと思うです、それが、充実したならばお前の宮だと、もういよいよ、有り難い勿体無い心がつのられて見えたであろうと思うのです。 昨日の、ね、勧学祭から引続いての私の生誕祭においてもしかりです、ね、私と致しましてはその中にお祝いをしてもろうたが奉祝、祝賀会を開いてもらうといったような事を思いをしない感じをしないけれども、ね、皆さんがそうしてくださる、その中にはとても勿体無うして、自分のこれはお祝いではない、合楽の御非礼として私は頂いておりましても、なら私の心の中にその実感はです、ね、神様が二間四面の宮を建ててくれると言われる、ね、そして、それに努力をされる、そして出来上がったならその方の宮じゃと仰せられて教祖のお心を教えておられるように、天地の親神様もやはり私の心を引いて下さる、ね、祝賀会そのものは、まあ、私自身としての頂き方は、ね、とても自分が頂けれるというものではないのだけれども、皆さんの真心が、ね、こうやってこんな形で盛大に祝賀絵が模様される、そこで、なら私と致しましては、ね、それを教会の御非礼だとしていただくその心であります、その心がおかげを頂く心に繋がるのです、御神前に出て御祈念をする、いや、ご神前に出ただけでも有り難くなるような、いうならば奉斎様式をとらせて頂くということ、ね、例えば大祭の時に、なら、開扉をする、ね、お扉が開かれて、ね、それこそ、神下げたあの、ぎーという、その、音が共に、ね、楽の調べにもって開扉がなされる、ね、その時に神様が現われなさるのではなくて、私共の心が開かれる、私共の心の中の神様が踊り出てくださる、ね、だから、神様が現れなさるのではない、云うならば、ね、神様を対象とする所の奉斎ではなくて、私共人間氏子の心を、私は焦点にしての奉斎だと、ね、いうなら、私共が有り難くなららせて頂く事のための奉斎だと、ということになりますとですね。
やはり、長年の教えをもった神道、また、古神道あたりからなりました、なら、お社の様式、ね、あの、お扉を開くという事やら、あのお扉を開く時に出る、あの、まあ、云うなら、きしる音ですね、扉をよう時に、まあ、本当に誰が考えたかも知れんけれども、素晴らしい事だなと、例えば、あの音を聞いて、はぁー、( ? )、しないでしょう皆さん、それこそ、身が引き締まるような心がするです、いわゆる、わが心の神様が引き締まなさるのであり、わが心の神様がその喜びと同時に踊りでて下さるような感じがする訳です、そこをみあがっての私は奉斎という事になる時にです、ね、そこに、金光教的ではないとかあるとかというて、いうならば簡単に、ね、角にちょっと天地書附をされとけばよいといったような浅い人間の浅はかな事で、まあ、云々しておりますけれども、ね、そういう必要も無いし、なら、いよいよ、私は、ね、現在の奉斎様式というものをです、大事にしていってもよいのじゃないかと、これは、まあ、私の私見ですけれども、ね、そんなふうに思いますと同時に、ね、今日は金光教の信心による神観、金光教の神様というのは、もちろんお社の中に鎮まる、入っておられるという神様ではない、ね、それこそ、天地いっぱいにになぎっておられる神様である、なるほど、神様が、ね、神に合おうと思えば、庭の口でも合える神様、ね、そう言う神様のいうならば、ご性格といったようなものを、ね、いわゆる、神観です、金光教では神を書く見ると、だから、理屈を云わずに理屈なしにです、ね、ただ、有り難いと言う心を頂かせていただくための一つの演出と言う風に思うて奉斎、奉斎は必要であり、または、お社の中に、お社にご神前をお祭りするという事はそう云う意味で有り難いんだというような事を今日は聞いて頂いたんです。
皆さんにいろいろお祈り添えを頂いておりました、末永先生ところの公子さんが昨日、ちょうど、( ? )だったそうですから、ここでのお祭り中だったそうです、無事に男の子、安産のおかげを頂いた、もう大変安産なおかげを頂きましたそうでございます。
夕べ、あの、祝賀会が終わりましてから、あの、休ませて頂いておりました。ちょうど、何時ごろだったでしょうか、6時ごろだったでしょうか、休んどったら、●②、静かな行という事を頂きました、ハッと私は、静かな行とこう、静、静かな行とこう書いてみたら、はぁーこれは末永先生のところの、あの、子供のお名前だなと思うたからこれすぐここへ出てまいりましてそのことを神様にお届けさせてもらいました。
やっぱり、あの、末永静行という、ね、あの、お名前を頂きました訳です、そして、私本当にそれをつづらせて頂いて思わせていただいたが、金光様の御信心、まあ、先生というのは、この静かな行が出来なければでけのとです、いうならば、御結界にそれこそ、静かなる事、まあ、山のごたるとかですね、、まあ、動かない心、まあ、本当によい取次者が出来るだろうと私は思うて有り難いと思わせて頂いたんですけれども、ね、その、もうここに座っておる事が、もう、とてもして答えんちいうごたる、( ? )、といったような先生であったり、取次者であっては人が助からんのです、もうここに座ったが最後身が入ったように、もう、動くごつなか位な心の状態が開けてこなければお取次ぎ者としての、私は、本当な資格は無いと思うのです、段々おかげを頂いて、ね、そう云う静かな行という事が、神様の願いがそう云うところにあるだろうとこう思います。 今日の御理解から頂きますとです、いうならば、そういう例えばお名前を頂いて、親も思い、また、子供の心がつくごろに、頂くに従ってです、そのことを思うことだろうとこう思うのです、やはり、自分はもう生まれつき取次者としての神様の願いが掛けられておるんだ、本当によい静かな、いわゆる、御結界に座らせて頂くという事をです、ね、いよいよ、修行させてもろうて、名前の通りに静かな行ができれる自分にならにゃんならんといったようなことを思うだろうと思います。
私は、その、ね、思うとか念ずるとか、感ずということがです、有り難いと云うものにおかげの頂けれる方に繋がるという事です、ね、中村さんのところの、なら娘婿さんの所の電話じゃないですけれども、0044と言うたら、もうそれこそ、もう、それこそ、電話を返してしまうごととある、あー演技でもないというような心がいつもする、そこには演技でもないような事がまた起きてくるような結果にもなりかねない、けれども、いつも神様に自分どんぐらい信心があんまりでけんから、ね、神様が、が電話を見るたんびに、あー、本当に神様におすがりをしておるか、神様に「よんよん」しておるかといつもその電話みるたんびに思うて神様に心を向けるその心が有り難いおかげをいただけてくることになるのです、その心に神様が現れてくださる、まあ、金光教で言う神様はそう言う神様、柏で打たなければ来てくださらんといったような事ではない、自分の心の中にやどってくださる、または、きて感じてくださる、有り難いと思うその心に、神様はそこに働きは始めてくださる、そう云う、いうならば、神様だと、いう事を今日は聞いて頂きましたですね。
どうぞ。
末永静行
2006年3月12日